ジャーナリスト

田原総一朗

Soichiro Tahara
1934年生まれ滋賀県出身。テレビ東京のディレクターや映画監督の経験を経て、ジャーナリスト、評論家、ニュースキャスターとして活躍中。98年、戦後の放送ジャーナリスト1人を選ぶ城戸又一賞を受賞。現在、早稲田大学特命教授として大学院で講義をするほか、「大隈塾」塾頭も務める。「朝まで生テレビ!」「激論!クロスファイア」の司会をはじめ、テレビ・ラジオの出演多数。
田原総一朗

理屈って後付けの理屈が多いけれど、原点を言えば小学校5年生の夏休みに日本が戦争に負けたことでしょうね。

小学校5年生の1学期までは、先生はみんな「この戦争は正戦だ」と教えた。「君らは天皇陛下の為に戦って命を捨てろ。君らの寿命は二十歳までだ」と言った。その頃は、そう信じた。

でも、夏休みに戦争に負けた。そうしたら2学期からは先生が言うことはゴロっと変わった。「あの戦争は悪い戦争だった。侵略戦争だ。やってはならない戦争だった」と。「もし戦争が始まろうとしたら、君たちは身体を張って戦争になるのを止めるべきだ」と言った。僕らは素直だったから、そう信じた。

その内、高校1年生の時に朝鮮戦争が始まった。小学校の時に「戦争が始まりそうになったら身体を張って止めろ」と言われたから「朝鮮戦争反対」と言ったら「お前は共産党か」と言われました。

ステージが上がるごとに先生の言う事が変わるわけだ。だから、世の中の偉い人の言う事は大体間違っている。信じたら損だ。それがジャーナリストになるきっかけじゃないかな。

タブーなんてない

田原総一朗

ジャーナリストになろうと思って、記者の試験を受けた。新聞社やNHK、全部不合格でした。10社ほど落ちた頃に岩波映画製作所という会社の試験を受けたら合格しただけで、たまたま映像の分野でしたね。

その後、岩波映画製作所からテレビ東京に転職してドキュメンタリーの番組を作っていました。その時に山下洋輔(ジャズピアニスト)を撮りたいと思ったのですが、ただ写すだけなら新宿のピットインで彼はピアノを弾いているわけだからドキュメンタリーを撮ったって意味が無い。彼に「どういう状態でピアノを弾きたいか」と尋ねたら「ピアノを弾きながら死にたい」と言われ、それをやろうということになりました。

早稲田大学の大隈講堂からピアノを盗み出して、ピアノを共産党員が占拠している校舎の地下にホールがあって、そこに持ち込んで演奏をやろうと。そうしたら民生(日本民主青年同盟)が頭に来てピアノを取り返しに来るだろう、中核も革マルも来るだろう。ゲバルトが始まって、その中で山下洋輔は死んでいくと。そういう筋書きで、本当にやったんです。

ところが早稲田大学って変な大学で、民生も中核も革マルも来たんだけれど、皆静かに聴いていた。結局、僕の目論みは外れましたよね。その時もそうだけれど、テレビはどこまでできるのか?というのがテーマ。その時、彼が死んでいたらきっと僕は殺人の共犯だよね。そんなことは承知。この国のタブーってなんだろう?何でもやりました。右翼もやったし暴力団もやったし。

1960年代の話ですが、成田闘争の時、農民は武装しているし過激派も付いているから危ないからカメラは農民の後ろから撮っていた。その時、空港公団や警察官は人相の悪い顔をして睨みつけている。視聴者から見たら農民が正しく見えて、空港公団は成田空港の滑走路を作るべきじゃないという世論が出来ていた。

ところがだんだん警官隊が強くなってきてガス弾もブっ放すようになると、今度はカメラは警官の後ろから撮るようになった。そうすると農民が武装している、過激派も付いている映像を視聴者は見ることになった。そうすると世論は段々、農民がおかしい、空港公団は建設をするべきだという空気に変わっていった。世論なんてそんなもんですよ。

常識を叩き潰す

田原総一朗

今、政治家が小物になったとか政治家が劣化したとか言うけれど違うと思う。やっぱり、今日本が置かれた状況が難しいんです。例えば、消費税を増税するって言えば、みんな反対するに決まっている。じゃあ財政が破綻してもいいかと言えばこれも反対。みんな国民が迷っている。原発も反対だけれど、電力がないことも反対だし。だから面白い。こんな面白い時代はない。国民は利口じゃないけれど、馬鹿じゃない。言えばわかる。

今のマスコミのだらしないのは、国民に迎合ばかりしている。国民に好かれたいと思っている。世の中にある常識を疑うこと。だいたい常識は間違っている。それは、小学校5年の夏休みに感じた。今でも、常識をいかに叩き潰すか。こればっかりやってるの。

※記事の内容は取材当時のものとなります

プロフィール

氏名
田原総一朗
生年月
1934年
出身地
滋賀県
趣味
仕事